蕃塀(ばんぺい)にこだわったブログです。蕃塀は神社の拝殿の前にある衝立状の塀です。
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堀池論文を読む(5)

 前回は、堀池康夫・堀池哲生「蕃塀の研究(その民俗学的建築史の解明)その1」の3)蕃塀の歴史の項にある「文永三年遷宮記(1266)、暦応造替記(1338)にも、その存在が見られる」の文章を受け、『文永三年御遷宮沙汰文』にある「蕃垣御門」や「屏垣」が「蕃塀」を意味しているのだろう、などと推測した。

 しかし、釈然としない部分があり、改めて「蕃垣御門」について調べてみた。

 昭和12年臨川書店発行の『神道大辭典第三巻』には、「蕃垣御門」は「皇大神宮・豊受大神宮の御門。また猿頭御門と呼ばれる。瑞垣南御門と内玉垣南御門との間にある。『皇大神宮儀式帳』の「放不葺御門八間」の一つであり、(以下略)」と記され、蕃塀とは別物であることが書かれていた。

 加えて「蕃垣」の項では、「皇大神宮の御垣。豊受大神宮にはない。(中略)『皇大神宮儀式帳』に「一ノ玉垣長十四丈」とあるのが之に相当する。『建久九年内宮假殿遷宮記』等によって、古くは此の垣は蕃垣御門に附属していたことが分る。『皇大神宮儀式帳』の齋内親王侍殿の下に見える「蕃垣一重長三丈」、『止由氣宮儀式帳』大宮院の條に見える「蕃垣三重長二丈」は、今の蕃塀に相当するものである。」と明記されている。

 実際の内宮の御垣内の平面図をみても、蕃垣御門は『神道大辭典第三巻』の解説通りの位置にあり、蕃塀とは別物であるといえる。そして蕃垣の解説では、『皇大神宮儀式帳』にも蕃塀につながる蕃垣の記述があるといっており、先(前々回)の推測は的を射ていたと言えそうである。

 『暦応造替記』をまだ確認していないが、結局、「文永三年遷宮記(1266)、暦応造替記(1338)にも、その存在が見られる」という文章を具体的に確認することが、私にはできなかったということになる。

 『神道大辭典第三巻』の蕃塀の解説の最後には「中世、御垣と共に廃絶したものを明治二年に玉垣とともに再興せられた。」とあり、鎌倉時代の記録には簡単には見出せない存在であったといえよう。
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by banbeimania | 2007-11-30 18:12 | 蕃塀を深める | Comments(0)

堀池論文を読む(4)

 今日も引き続き堀池康夫・堀池哲生論文の第3章を読んでみる。

3)蕃塀の歴史 — (承前) 顕広王記、治承二年(1178)十月の条、文永三年遷宮記(1266)、暦応造替記(1338)にも、その存在が見られるが、(以下つづく)
 (堀池康夫・堀池哲生「蕃塀の研究(その民俗学的建築史の解明)その1」より抜粋)


 まず、『顕広王記』は顕広王が応保元年(1161)から治承二年(1178)まで著した記録で、刊行本としては『続史料大成』などに所収されるらしいが、まだ実見するに至っていない。

 次に、『文永三年遷宮記』は、『続群書類従第一輯上』に所収された『文永三年御遷宮沙汰文』(1266)のことであろうか。もしそうであるならば、蕃塀と疑わしき表現を2ヶ所発見した。一つは、十月一日条の一殿舎御門分配目録に「瑞垣御門上首十六人。蕃垣御門五人。玉串御門十六人。四御門十六人。(以下略、全ての註釈を略す:巻第八の262頁)」とあり、この蕃垣御門が該当する。もう一つは、文永四年七月十三日の注進本宮別宮殿舎御垣並造替陸社内未作所々事に「忌屋殿。件殿者。御饌調備之間。屏垣四面内所奉安置御竃木也。(以下略、:巻第八の271頁)」とあり、この屏垣が該当する。

 蕃垣御門が蕃塀を意味するのであれば、『建久九年内宮假殿遷宮記』(1198)には七月六日に「(前略)南面三重瑞垣御門。東西脇各三丈六尺。南北長九丈八尺。番垣御門。東西脇各四丈四尺。南北長瑞垣。舊跡定也。南面今重玉串御門。東西脇如番垣御門。在左右少垣各一丈三尺。付北方開間各五尺。又南面荒垣。鳥居前木柴垣一所。如屏垣。南面三重。(以下略:『続群書類従第一輯上』巻第七の215頁)」という記述や、『康暦二年外宮遷宮記』(1380)にも十一月十五日に「奉立蕃垣御門(『続群書類従第一輯上』巻第六の174頁)」という記述などがある。

 これらの記述をみると、「蕃垣御門」は一定規模の門であることが分かるし、「屏垣」は四周を巡る施設のような感じがし、本当に蕃塀のことを指しているのか疑わしいように思われる。記録で蕃塀を追いかけるのも容易ではないと感じる、今日この頃である。
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by banbeimania | 2007-11-29 00:17 | 蕃塀を深める | Comments(0)

堀池論文を読む(3)

 今日は堀池康夫・堀池哲生論文の第3章を読んでみる。

3)蕃塀の歴史 — 延暦二十三年(803)の皇大神宮儀式帳には蕃塀の文字は見られないが、豊受大神宮儀式帳には蕃垣三重、長各二丈と記され、ここにその起源があると認められ、(以下つづく)
 (堀池康夫・堀池哲生「蕃塀の研究(その民俗学的建築史の解明)その1」より抜粋)


 本ブログの初期の頃に紹介した昭和12年臨川書店発行の『神道大辭典第三巻』での蕃塀の解説には、「(前略)『皇大神宮儀式帳』には見えないが、『止由氣宮儀式帳』に「蕃垣參重長各二丈」と見え、また『顯廣王記』治承二年十月の條に「大神宮御前屏柱」、建久の『皇大神宮年中行事記』に屏垣と見える(後略)」とある。

 そこで塙保己一編『群書類従第一輯』に所収された『止由氣宮儀式帳』(=『豊受大神宮儀式帳』か?)を見る。この中の「等由氣太神宮院雜行事壹條」には「大宮壹院」の建物構成は「正殿壹區。同殿坐神參前。寳殿貳宇。御饌殿壹宇。幣帛殿壹宇。齋内親王殿壹宇。女孺侍殿壹間。御門肆間。瑞垣壹重。宿直屋參間。玉垣貳重。板垣壹重。蕃垣參重。(全ての註釈を略す)」という説明があり、確かに蕃垣の文字が見える(巻第二の46頁)。同條には「御倉壹院」「直會所壹院」「齋内親王御膳壹院」「御酒殿壹院」「齋舘壹院」「管高宮壹院」の説明もあるが、これらには蕃垣の文字はない。

 ところで『皇大神宮儀式帳』には蕃塀や蕃垣の文字が本当にないのだろうか。『群書類従第一輯』に所収された『皇大神宮儀式帳』の中の「天照坐皇太神宮儀式並神宮院行事壹條」には「大宮壹院」の建物構成は次のように記されている(巻第一の4頁)。「正殿壹區。寳殿二宇。御門十一間。玉垣三重。齋内親王侍殿一間。女孺侍殿一間。幣殿一院。御倉一院(以下略、全ての註釈を略す)」。この中で「齋内親王侍殿一間」の後ろに「番垣一重」と記され「長三丈」と註釈されている。『止由氣宮儀式帳』と『皇大神宮儀式帳』の両「大宮壹院」は構成が異なり、単純な比較は困難であるが、玉垣や板垣とは異なる長さが2〜3丈の「ばんがき」が共に存在すると言える。

 よって、『皇大神宮儀式帳』の「番垣」は文字が異なるものの、『止由氣宮儀式帳』の「蕃垣」と同じものを示しているのではないだろうか。もしそうであるならば、延暦23年(804)の『皇大神宮儀式帳』には既に、蕃塀の起源となる番垣が存在したといえることになる。蕃塀の起源は8世紀以前に遡る可能性があると思われる。

 さて、こうした解釈でよかったのであろうか。
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by banbeimania | 2007-11-27 00:00 | 蕃塀を深める | Comments(0)

堀池論文を読む(2)

 昨日から、堀池康夫・堀池哲生「蕃塀の研究(その民俗学的建築史の解明)その1」を読み始めたが、その2回目である。今日は第2章を読んでみる。

2)蕃塀の名称と機能 — 伊勢の皇大神宮(内宮)の正殿の最も外側を囲む板垣の南北東西の御門の外方に御門の内部が見えない様に建つ「スクリーン」状の、高3米、幅6米の掘立丸柱の板壁の塀がある。神宮では、この板塀を「蕃塀」とよぶ。豊受大神宮(外宮)の正殿の場合も同じく、板垣御門の外、南北東西に建つ。尚、内宮南御門前の蕃塀は、正殿南を流れる島路川の縁に建つ御贄調舎の北に建ち正殿への調舎からの見通しを遮断する位置にある。又、正殿の西に建つ忌火屋殿、由貴御倉、御酒殿の前面にも小規模の高さ、幅共、約2.2米大の蕃塀が各々建つ。熱田神宮においても、本宮の拝殿の前面の広場の南端の一隅に、内宮と同型式の白木造の蕃塀が独立して建つ。以上が伊勢及び熱田神宮の蕃塀の所在であるが、その共通点は、正殿、御門の中心線上に、その中心を置き、御門等の前方に位置し、御門の面に平行して建ち、外方からの御門内への視線を防ぐ遮蔽壁となり、一方、正殿、拝殿から外部の不浄への見通しの障壁塀ともなる。即ち、蕃塀の機能は内外の視線遮断のための独立構造の壁体である。(堀池康夫・堀池哲生「蕃塀の研究(その民俗学的建築史の解明)その1」より抜粋)

 私は残念ながら未だに伊勢神宮の蕃塀を実見していないので、この部分を具体的に読み込むことができない。実見した後に再検討したい。なお、臨川書店の『神道大辭典第三巻』には「皇大神宮・豊受大神宮の東西南北の板垣御門外にあって障蔽をなす塀」と解説されているが、論文中にある忌火屋殿、由貴御倉、御酒殿の前面については触れていない。

 次に、熱田神宮の蕃塀について検討したい。熱田神宮の蕃塀は「本宮の拝殿の前面の広場の南端の一隅に、内宮と同型式の白木造の蕃塀が独立して建つ」という記述に関しては現在も変わりはない。ただし「外方からの御門内への視線を防ぐ」といった記述は、本来の参道を想定すればそうなのかもしれないが、現在の参道では外方から視線遮蔽となっておらず、合致していない。
 また、熱田神宮の社殿は明治26年(1893)に尾張造りという社殿型式から伊勢神宮と同じ神明造に作り替えられていることから、蕃塀も同じ頃に連子窓型蕃塀から現在の衝立型蕃塀に建造し直された可能性がある。近代以降に伊勢神宮の建築様式に大きく影響を受けた現状の熱田神宮の事例を、蕃塀の機能を考える際の代表的な事例に取り上げるのは適切とはいいにくいと思うが、いかがであろうか。

 ただ、「蕃塀の機能は内外の視線遮断のための独立構造の壁体である」と総括した部分は傾聴に値する。少なくともこれまでの私には「独立構造の壁体」という概念を意識していなかったのである。
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by banbeimania | 2007-11-26 00:17 | 蕃塀を深める | Comments(0)

堀池論文を読む(1)

 蕃塀に関する先行研究として、堀池康夫氏と堀池哲生氏の論文がある。この論文の存在は、国立情報学研究所「CiNii論文情報ナビゲータ」で、蕃塀の探索を始めた当初の頃から認識していた。しかし、1982年8月刊行社団法人日本建築学会学術講演梗概集計画系Vol.57に所収された本論文を、その専門性から長らくどのように入手しようか探しあぐねていたところ、最近になってCiNiiのホームページで本論文のPDF(Full Text)をダウンロードできることに気がつき、簡単に入手することができた。

 ここしばらくは、この堀池康夫氏と堀池哲生氏の論文「蕃塀の研究(その民俗学的建築史の解明)」を紹介しながら、これまでに私が調べてきた知見と比較し検討してみたい。この論文は、私の知る限り唯一の蕃塀に関する学術論文である。

 堀池康夫氏と堀池哲生氏の論文「蕃塀の研究(その民俗学的建築史の解明)」は昭和57年〜昭和61年の5年間にわたって、その1〜その5に分けて発表された。堀池康夫氏は岐阜女子大学教授、堀池哲生氏は岐阜女子大学非常勤講師(いずれも当時)であった。

 まず、「蕃塀の研究(その民俗学的建築史の解明)その1」を読んでみよう。

1 はじめに — 尾張の国の木曽川流域の地方の神社の前庭に、俗に「不浄よけ」とよばれる木造又は石造の透塀様の障壁が建つことが多い。この構造物の民族学的、建築史的の起源、構造型式その他の解明を本研究の目的とする。

 まず、最初に問題となるのは「蕃塀」の読み方である。論文では「バンペイ」と明瞭にふりがなが付けられているが、私はこれまで「ばんべい」と読んでいた。これについてネット上で調べると、「Japanese Architecture and Art Net Users System」では、「蕃塀」を「banbei」と代表的に読むが、「Also pronounced hanbei,banpei.」と記し、「はんべい」とも「ばんぺい」とも読むことが示されていた。この記述を信用すれば、読み方はどちらかでなければならないものではないらしい。

 次に気になる点は「尾張の国の木曽川流域の地方の神社の前庭に」という記述である。蕃塀が主に分布する区域を「尾張の国の木曽川流域」と概括しているが、木曽川河口域は該当しないなどの多少の問題があるものの、現在の私の把握した範囲では、4割以上の神社に蕃塀を持つ自治体の分布域の要点を比較的に的確に示しているように感じられる。流石であるといえよう。

 「民族学的、建築史的の起源、構造型式その他の解明を本研究の目的とする」とあり、その内容の展開が期待される。
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by banbeimania | 2007-11-25 00:35 | 蕃塀を深める | Comments(0)

稲沢市の蕃塀(1)旧稲沢市内編

 ここ長らく稲沢市内の神社にある蕃塀の事例を紹介してきた。現在の稲沢市は平成の大合併により旧中島郡平和町と同郡祖父江町が合併したものである。ここでは一つの区切りとして旧稲沢市に所在する神社の調査を終えたので、これをまとめておきたい。

 愛知県神社庁の資料によれば、旧稲沢市には121社の神社が記載されている。私はこの10月までにこのうちの121の神社を踏破したが、このうち蕃塀を持つ神社は既に紹介した59例である。具体的には、竹腰八劔社、六角堂八幡社、赤池宮西諏訪社、陸田本町神明社、子生和川曲神社、治郎丸天神町天神社、尾張大国霊神社、長野神明社、井之口日吉社、長束白山社、北市場立部社、日下部中町白山社、日下部中町3丁目神明社、日下部中町6丁目神明社、島町二ノ宮社、稲島八幡社、稲島八龍社、木全八幡社、大塚八幡社、大塚日吉社、奥田寺切白山社、奥田大門切白山社、重本神明社、池部神明社、平野八幡社、横地白山社、船橋熊野神社、桜木宮前八坂社、天池東町八幡社、清水神社、西島本町天神社、西島神明社、法花寺日吉社、馬場八幡社、鈴置神社、矢合三島社、萩園神社、矢合三社、儀長貴船社、河俣下神社、横野神明社、塩江神社、梅須賀神明社、千代神社、堀ノ内八幡社、北島土之社、高重屋敷神明社、高重郷クロ神明社、増田八幡社、中之庄厳島社、中之庄天神社、中之庄神明社、七ツ寺十五所社、福島神明社、附島八幡社、込野富士社、込野八龍社、裳咋神社、北麻績神明社である。また、愛知県神社庁の資料に掲載されていない日下部中町沓石神社、下津寺前八幡社、下津本郷神明社の3社にも蕃塀は認められた。

 この他の、赤池八劔社、赤池浅間社、下津住吉神社、治郎丸東町天神社、国府宮富士浅間社、国府宮神明社、長野石田神明社、稲沢神明社、小池神社、正明神社、稲島久多神社、稲島神明社、松下修理若御子社、稲沢稲葉神社、小沢神明社、高御堂十二所社、大塚白髭社、大塚南三宮社、西町金神社、平町神明社、小寺神明社、石橋八幡社、天池西町天神社、生出本町神明社、浅井神社、下屋神明社、法花寺天神社、矢合市神社、山口天神社、片原一色吹上神明社、片原一色冨士社、片原一色如来神明社、一色森山澳津社、一色川俣秋葉社、一色中屋敷金刀比羅社、一色中通八剣社、千代白山社、千代八幡社、大矢手白神社、大矢稲荷神社、大矢神明社、中之庄八幡社、堀田天神社、牛踏神明社、南麻績富士社、南麻績八劔社、南麻績天神社、目比八龍社、野崎春日社、野崎十二所社、板葺神明社、西溝口八幡社、西溝口熱田社、今村西春日社、坂田日吉社、氷室貴船社、井堀北出神明社、井堀中郷古天神社、井堀中郷天神社、井堀下郷白山社、井堀野口神明社(神明社は発見できなかったが、この住所には現在は別格稲荷社が存在する)の61柱には蕃塀は認められなかった。また、愛知県神社庁の資料に掲載されていない国府宮町大御霊神社、下津住吉八幡社(元下津高戸町)、御供所八劔社、稲島大秋大明神、西島三狐社、儀長前南八幡社、儀長仏畑善宮社、長野3丁目不明神社にも蕃塀は認められなかった。

 また、小池正明寺町字アガタに所在すると記されていた県社は、神社そのものを見つけ出すことができなかった。明治17年作製の地籍図には県社の存在は描かれているが、探し方が悪いためか現在は行方が不明である。

 以上の結果、旧稲沢市では、愛知県神社庁のリスト中の約49.2%の神社で蕃塀が存在することが判明した。これまで紹介してきた中では、丹羽郡扶桑町(約89%)、丹羽郡大口町(約60%)、西春日井郡豊山町(約57%)に次ぐ分布密度の高いエリアということができる。そして北名古屋市(約46%)、犬山市(約44%)よりもやや多い結果となった。また種別では、石造連子窓型蕃塀が優勢を占めていた地域と評価できよう。
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by banbeimania | 2007-11-24 00:39 | 探索の記録 | Comments(0)

稲沢市下津本郷町神明社の蕃塀

 稲沢市下津本郷町に所在する神明社については、創建年代など詳細は不明である。『寛文村々覚書』に記された下津村の「神明」が本社に該当すると思われる。祭神は社名からみて天照大神であると推察される。拝殿内には「奉献 伊勢皇太神宮外宮 伊勢皇太神宮内宮 出雲大社大國主命 平成十三年四月吉日」と記された札が掲げられていた。なお、この神社は愛知県神社庁のリストには存在しない神社である。

 下津本郷神明社の蕃塀は3間巾の木造銅板葺き連子窓型蕃塀である。大きさは概略で、本体長約3.4m、全高約2.9m、屋根長約4.5m、屋根巾約1.7mで、両側に控え柱を持つ。

 詳細の構造は次の通り。切り石を周囲に巡らせた基壇に自然石による礎石を設置し、その上に円柱を4本立てて下から順に貫、腰長押、内法長押を通し、上端は棟木を渡す。内法長押の上に雲形肘木と簡略化した雲形腕木を配置し、表裏両面の桁を支え垂木を渡して屋根を載せている。屋根は切妻造りで大きく反りを持っている。銅板が一文字葺きされ、銅板で造られた大棟の両端には鬼板が配置されている。鬼板の中央と大棟側面3ヶ所には金色に輝く菊紋が施されている。蕃塀の中央には連子窓が設けられ、その上には一枚板の横羽目板が、下には縦羽目板が嵌め込まれていた。控え柱も全て木製で、控え柱にも基礎に礎石が設置されている。

 下津本郷神明社は、正面から灯籠、鳥居、灯籠、狛犬、蕃塀、灯籠、壁の無い吹き抜けの妻入拝殿、渡殿、灯籠、狛犬から本殿施設群(祭文殿や本殿など)に至る構成を持つ。

 下津本郷神明社の蕃塀は3間巾で中規模である。屋根以外の部分は飾り金具や塗りが全く認められず、白木造りが美しい。木材の劣化がほとんど認められないことから、製作年代はそれほど古いとは思われないものである。また、控え柱も含めて全て布基礎を持たない礎石建ちの蕃塀は、意外と珍しい存在である。
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by banbeimania | 2007-11-23 00:07 | 蕃塀の事例 | Comments(0)

稲沢市下津寺前町八幡社の蕃塀

 稲沢市下津寺前町に所在する八幡社については、創建年代など詳細は不明である。『寛文村々覚書』には下津村に神明・住吉大明神・八幡弐社・白山三社があるといい、この八幡のうち1社が本社に該当すると思われる。祭神は社名からみて応神天皇であると推察される。なお、この神社は愛知県神社庁のリストには存在しない神社である。

 下津寺前八幡社の蕃塀は、3間巾の石造連子窓型蕃塀で、大きさは概略で本体長約2.7m、全高約2.3m(現状)、屋根長約3.5m、屋根巾約0.7mを測り、両側に控え柱を持つ。

 詳細の構造は次の通り。蕃塀の下部構造は土砂に埋没していて、基礎構造の詳細は不明であるが、とりあえずは円柱を2本立てて屋根を載せている状態は確認できる。円柱の内側には下から羽目板部、貫、連子窓部、貫、透かし部の順に材を積み重ねている。羽目板部は角柱を2本立てて3つの区画に分け、表面は左右の区画に倒立した獅子紋、中央の区画に丸に対い鳩紋が彫刻されていた。一方、裏面は左側の区画に「昭和五年一月(以下不明)」、中央の区画に「寄附人 (地名+人名2人分)」、右側の区画に「ナゴヤ西区八坂町 石工角田六三郎」の文字が刻まれている。透かし部は双龍紋が描かれ、その形状は頭部を両端に配置し扁額を持たないAタイプである。円柱上位に雲形腕木を模した張り出しが前後にあり、連子窓部は角柱を10本立てて造られる。連子窓の支柱がずれないように下端部が木材によって補強されていた。屋根は寄せ棟状に切り出された反りを持つ屋根で、大棟の両端は外側に突き出ていた。控え柱は全て石製で、頭部は宝珠形に作られているが、4本中3本は頭部が欠損していた。

 下津寺前八幡社は、正面から一の鳥居、灯籠、直角に折れて蕃塀、壁の無い吹き抜けの妻入拝殿、灯籠、狛犬から基壇上の本殿施設群(祭文殿や本殿)に至る構成を持つ。

 下津寺前八幡社の蕃塀は、昭和5年(1930)に名古屋市西区八坂町の角田六三郎により製作されたものである。石工角田六三郎の作品はこれまでに多数紹介してきたが、羽目板部に丸に対い鳩紋が記されているものは初例である。鳩は軍神とされ、中世の武士は八幡大菩薩の神使として崇めた。『吾妻鏡』に千葉介常胤は軍旗の上方に伊勢大神宮と八幡大菩薩を、下方に対いあった鳩二羽を白糸に縫い出したことが記されており、八幡社にこの紋様が存在することは不思議ではない。
 一方、本蕃塀の配置は蕃塀直前で直角に折れやや不自然さは否めない。また、蕃塀の下部が埋もれていることからみても、現在の下津寺前八幡社の参道は当初設定されたものとはやや異なっている可能性があるだろう。
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by banbeimania | 2007-11-22 21:29 | 蕃塀の事例 | Comments(0)

稲沢市北麻績町神明社の蕃塀

 稲沢市北麻績町祢冝田に所在する神明社は、創建年代など詳細は不明である。『寛文村々覚書』には北麻績村に神明があるといい、「前々除」と記されている。祭神は社名からみて天照大神と推察される。


 北麻績神明社の蕃塀は、3間巾の石造連子窓型蕃塀で、大きさは概略で本体長約2.7m、全高約2.5m、屋根長約3.4m、屋根巾約0.6mを測り、両側に控え柱を持つ。

 詳細の構造は次の通り。切り石を周囲に並べた低いコンクリート製基壇に礎石と布基礎を設け、その上に円柱を2本立てて屋根を載せている。円柱の内側には下から羽目板部、貫、連子窓部、貫、透かし部の順に石材を積み重ねている。羽目板部は円柱を2本立てて3つの区画に分けており、表面は両側の区画に倒立する獅子紋、中央の区画に鯉の滝登り紋が施されている。一方、裏面は中央の区画に「昭和三年二月建之 寄附者 (地名+人名5名分)」の文字が刻まれていた。透かし部は双龍紋が描かれ、その形状は頭部を透かし部の両端に配置して2匹の龍が向かい合い中央に「神明社」と刻まれた扁額を持つBタイプである。円柱上位に雲形腕木を模した張り出しが前後と外側にあり、連子窓部は円柱を14本立てて造られる。屋根は寄せ棟状に切り出された反り屋根で、大棟の両端は突き出ている。控え柱は全て石製で、頭部は宝珠形に作られている。

 北麻績神明社は正面から灯籠、鳥居、灯籠、蕃塀、灯籠群、狛犬、壁の無い吹き抜けの妻入拝殿、灯籠から基壇上の本殿施設群(祭文殿や本殿)に至る構成を持つ。

 北麻績神明社の蕃塀は、昭和3年(1928)に製作されたものだが、作者は不明である。中央の羽目板部に鯉の滝登り紋が彫刻される事例は珍しい。本蕃塀は連子窓の支柱が円柱となるものであるが、このような事例は他に愛西市由乃伎神社・愛西市北一色八幡社・愛西市草平津島社・愛西市立石八幡社・愛西市塩田神社・稲沢市治郎丸天神社の各蕃塀がある。支柱が円柱となる特徴は、尾張西部に多く存在すると言えそうである。
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by banbeimania | 2007-11-21 00:23 | 蕃塀の事例 | Comments(0)

稲沢市目比町裳咋神社の蕃塀

 稲沢市目比町天神東に所在する裳咋神社は、『延喜式神名帳』に「中島郡裳咋神社」、『本国帳』に「従三位裳咋天神」と記載された式内社である。裳咋臣得麿が祖神を祭ったと伝えられ、『続日本紀』の天応元年五月丁亥の条に尾張国中島郡人外正八位上裳咋臣などの記載がある。江戸時代には安養寺境内にあり、八龍権現と称されていた。


 裳咋神社の蕃塀は、3間巾の石造連子窓型蕃塀で、大きさは概略で本体長約2.7m、全高約2.4m、屋根長約3.4m、屋根巾約0.6mを測り、両側に控え柱を持つ。

 詳細の構造は次の通り。自然石を周囲に並べたコンクリート製基壇に礎石と布基礎を設け、その上に円柱を2本立てて屋根を載せている。円柱の内側には下から羽目板部、貫、連子窓部、貫、透かし部の順に石材を積み重ねている。羽目板部は円柱を2本立てて3つの区画に分けており、表面は右側の区画に兎と波涛紋、中央の区画に五三桐紋、左側の区画に鳥と波涛紋が施されている。一方、裏面は中央の区画に「昭和三年建之 寄附者 上之切第二組」、右側の区画に「ナゴヤ市西区キクヰ町二 石工角田乙吉」の文字が刻まれていた。透かし部は双龍紋が描かれ、その形状は頭部を透かし部の両端に配置して2匹の龍が向かい合い中央に扁額を持たないAタイプである。円柱上位に雲形腕木を模した張り出しが前後にあり、連子窓部は角柱を10本立てて造られる。連子窓上位の貫に「御大典記念」と記されている。屋根は寄せ棟状に切り出された反り屋根で、大棟の両端は突き出ている。控え柱は全て石製で、頭部は宝珠形に作られている。

 裳咋神社は正面から灯籠、鳥居、灯籠、蕃塀、狛犬、壁の無い吹き抜けの妻入拝殿、渡殿から基壇上の本殿施設群(祭文殿や本殿)に至る構成を持つ。

 裳咋神社の蕃塀は、昭和3年(1928)に名古屋市西区菊井町の石工角田乙吉によって製作されたものである。これまで確認された角田乙吉の手による石造蕃塀には、津島市宇治手力雄命社と海部郡大治町西条八劔社と稲沢市中之庄天神社と稲沢市塩江神社と稲沢市込野富士社の事例がある。本例は羽目板部に獅子紋が全く存在せず、波涛紋など別の紋様が施されている点が特徴的である。
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by banbeimania | 2007-11-20 00:34 | 蕃塀の事例 | Comments(0)