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堀池論文を読む(4)
今日も引き続き堀池康夫・堀池哲生論文の第3章を読んでみる。
3)蕃塀の歴史 — (承前) 顕広王記、治承二年(1178)十月の条、文永三年遷宮記(1266)、暦応造替記(1338)にも、その存在が見られるが、(以下つづく) (堀池康夫・堀池哲生「蕃塀の研究(その民俗学的建築史の解明)その1」より抜粋) まず、『顕広王記』は顕広王が応保元年(1161)から治承二年(1178)まで著した記録で、刊行本としては『続史料大成』などに所収されるらしいが、まだ実見するに至っていない。 次に、『文永三年遷宮記』は、『続群書類従第一輯上』に所収された『文永三年御遷宮沙汰文』(1266)のことであろうか。もしそうであるならば、蕃塀と疑わしき表現を2ヶ所発見した。一つは、十月一日条の一殿舎御門分配目録に「瑞垣御門上首十六人。蕃垣御門五人。玉串御門十六人。四御門十六人。(以下略、全ての註釈を略す:巻第八の262頁)」とあり、この蕃垣御門が該当する。もう一つは、文永四年七月十三日の注進本宮別宮殿舎御垣並造替陸社内未作所々事に「忌屋殿。件殿者。御饌調備之間。屏垣四面内所奉安置御竃木也。(以下略、:巻第八の271頁)」とあり、この屏垣が該当する。 蕃垣御門が蕃塀を意味するのであれば、『建久九年内宮假殿遷宮記』(1198)には七月六日に「(前略)南面三重瑞垣御門。東西脇各三丈六尺。南北長九丈八尺。番垣御門。東西脇各四丈四尺。南北長瑞垣。舊跡定也。南面今重玉串御門。東西脇如番垣御門。在左右少垣各一丈三尺。付北方開間各五尺。又南面荒垣。鳥居前木柴垣一所。如屏垣。南面三重。(以下略:『続群書類従第一輯上』巻第七の215頁)」という記述や、『康暦二年外宮遷宮記』(1380)にも十一月十五日に「奉立蕃垣御門(『続群書類従第一輯上』巻第六の174頁)」という記述などがある。 これらの記述をみると、「蕃垣御門」は一定規模の門であることが分かるし、「屏垣」は四周を巡る施設のような感じがし、本当に蕃塀のことを指しているのか疑わしいように思われる。記録で蕃塀を追いかけるのも容易ではないと感じる、今日この頃である。
by banbeimania
| 2007-11-29 00:17
| 蕃塀を深める
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